防災・減災への指針 一人一話

2013年10月07日
多賀城市らしい復興に挑戦したい
多賀城市役所 市長公室震災復興推進局(当時)市長公室行政経営担当
佐藤 昌史さん

発災時は遊軍的に行動

(聞き手)
東日本大震災以前に、何か他の災害を経験したことはありますか。

(佐藤様)
 私は小学校5年生の頃に多賀城市に引っ越してきたので、26年ほど住んでいることになります。自宅前の道路が浸水したというような水害の経験はありますが、自宅の浸水などは経験していません。職員になってからの大きな災害もさほど経験していませんでした。集中豪雨で冠水の対応のために現場に行ったことがある程度です。
2010年のチリ地震津波の時は、現場で津波を見たり、避難誘導をしたりはしていません。市役所内で作業をする班にいたので、現場での経験はさほどありません。
過去の震災の話を親から聞いたこともありませんでしたので、今回の震災では、過去の経験はあまり活かされていないように思います。

(聞き手)
 災害時にはどのような業務をされていましたか。

(佐藤様)
 災害対策本部の事務担当のような部署におりまして、当時、これをしなければいけないという役割の割り当てはありませんでした。
災害対策本部は混乱していて、誰かに仕事を頼まれ、動いていました。

(聞き手)
発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。

(佐藤様)
 私は当時も市長公室所属で、震災直後にも市長公室にいました。
すごい揺れでした。市長公室は、市長室もある東側庁舎にあって、震度5以上だと崩れるかもしれないと言われていました。そこで、市長と一緒に市庁舎2階の北側出入り口から外に出て、北側駐車場に避難しました。
そうしているうちに工場地帯から煙が出ているのが見えたので、市長と「ただ事ではないですね」と話したことが記憶に残っています。
 発災当時ですが、当時の市長公室長の菅野さん、それと市長公室長補佐の木村さんというお二人が災害対策本部に詰めていたので、そこへ顔を出したところ、八幡地区に資材を届けるよう頼まれました。
非常勤の事務職員と一緒に車で向かいましたが、その頃には、発災から一時間以上経っていたので、津波が来ていて、どうやっても八幡地区に向かえなかったのです。
仕方なく戻ったところ、今度は木村さんから、避難者が多いので東北学院大学の工学部に施設提供の協力を依頼してくるよう指示を受けました。
工学部にお話しに行って、緊急事態なので避難所として使わせてほしいとお願いしましたら、担当の総務の方が来て承諾してくださいましたので、すぐに工学部への避難誘導が始まって、雪の中を避難されて来た方たちの誘導に当たりました。

(聞き手)
工学部へは何人くらい避難されたのでしょうか。

(佐藤様)
 300人以上はいたと思います。私は最初の誘導対応に当たった後は、他の部隊に任せて、また市役所に戻ったのです。ですからその後の誘導の仕方や、実際の誘導指揮などは分かりません。

(聞き手)
東北学院大学工学部への交渉も、佐藤さんが直接したのでしょうか。

(佐藤様)
 そうですね。
工学部でも緊急事態なので何をすればいいのかは分かっておられたと思いますが、お話を申し入れたら、快く承諾して頂けて、すぐに、避難所として礼拝堂を開けてくださいました。

(聞き手)
避難してきた市民の方を誘導された後は、どういう行動をとりましたか。

(佐藤様)
 当日の夜に何をしたかは覚えていないのですが、翌日は、総務課で行っていた食糧や物品の受け入れと配布の人手が足りないとのことで、お手伝いをしていました。
最初は「とりあえず市内の店から、何でもいいからもらってきてくれ」と指示されました。
1日目は、食材が何もなく、避難者の方へ食糧をほぼ配れなかったので、市長公室と総務課の職員とで、まず、みやぎ生協多賀城店さんに向かいました。
そこで、下着や靴下と、配布できそうな食べ物を選んで、「後払いで必ず払いますから、これを頂けませんか」と聞きました。
すると「いいから何でも持っていってください」と言って頂きました。後で確認するために品名と数量を書いたメモを渡し、物品を持って、市役所に戻りました。
他にもご協力していただけそうな市内のお店を何店か回りました。
そこからは支援物資も含めて、物資の配布と管理を4月になるまでずっと担当していました。最終的には、私が指示を出したり、許可的なこともしていました。
最初の1週間は、支援物資が時間を問わずに来ていたので、ほぼ泊まりに近い状況でした。
夜中の2時でも、支援物資が来ると庁舎内の職員は全員集合させられました。4トン、あるいは10トントラックで来るので量が多く、置く場所もあまりなかったので、パズルのように、こっちを出してあっちに入れての作業を繰り返していました。

支援物資と配給、保管の問題

(聞き手)
物資の配給で、大変だったことは何ですか。

(佐藤様)
 避難所へ配送する食料などの物資の数が、1日最大1万2千食などになっていたので、最初の3週間ほどは毎日、それをどうやって配分するべきか悩んでいました。
初めにパンが届いたのですが、それをどこにどれだけ配布すれば問題が起きずに済むか考えていました。
1つの種類のものが大きな単位で来ることが少なかったばかりか、中には誰がどうやって食べるのか疑問に思ってしまうようなものもありました。
 時には、物資が各避難所から送り返されて来たこともあったり、「こんなものをよこされてもどうしようもない」と言われたこともあります。
後は、これ以上ストックできない物をもらってもどうすればいいのかと悩みました。
物資の置き場所の確保が厳しく、わざわざ別の場所にストックしに行ったのに、すぐ必要になってとんぼ返りしたこともあります。
いったん奥にしまった物を取り出さないといけなくなったことも何度もありました。
支援物資の配り方ともらい方が難しく、とても苦労しました。
広い保管スペースや計画的な受け入れ、需給のバランスをうまく調整できる仕組みがあると、被災者の方に必要な時に必要な物を届けられると思ったので、難しいとは思いますが、そこを次に活かせればいいと感じました。

食糧の片寄りをなくす工夫

(聞き手)
 支給する際に、その配分で何か工夫された点はございますか。

(佐藤様)
 例えば「パン、おにぎり、カップラーメン」の順番で、というように、同じものが連続しないように心掛けました。出来るだけ飽きないように工夫と言うよりは、手元にある物の順番を変えるだけでしたが、支給していました。
しかし、避難所側では、お湯の確保が難しかったので、カップ麺はいらないという声も聞こえてきて、悩ましく思っていました。
 それ以外では、例えば、総合体育館などでは、独自に炊き出し支援があり、牛丼が出たという話などを聞くと、そういう変化をもっと他の避難所にも分けてあげられればいいと感じていました。
その中で、有償ではありましたが、ドーナツを多賀城・七ヶ浜商工会長さんが調達して下さり、そうした配布を組み入れて、メニューのバリエーションを出していました。
 他にも、仙台港にキリンビールさんがあるのですが、津波をかぶってドロドロになったペットボトルを分けてくださったことがありました。中身は綺麗だったので、水が不足していたこともあり、出来る限り拭いて配布することにしました。
ですが、後で避難所担当の職員から、あれをどうやって飲ませろというのかとお叱りを受けました。良かれと思ってやったことが、避難所での対応に噛み合っていないこともありました。
 配布していた私たちは、ろくに食べることはできませんでした。
食べることができたとしても、賞味期限が切れかけたパンや賞味期限の切れたおにぎりしか食べられませんでした。
賞味期限から数日過ぎてしまうと、もうそれを、避難所に渡すことはできません。職員や消防団分団の人と、こうした期限切れ食品がどうにかならないかと相談したところ、「逆にそういうのをよこしてくれ、行政としてではなく、消防団分団として困っている人達に配ってくる」と言ってもらい、これはうまい仕組みだと思いました。
公平にならないことは分かっていますが、分団の人には、バナナや果物、ハムなどの避難所で配りにくいものを何度も配ってもらいました。あまり褒められたことではないですが、結果的には正解だったと思っています。
在宅避難で困っていた方が沢山いらっしゃったのですが、そこに何とか届けたくても届けられない悔しさを噛みしめていた時に、分団の方に助けてもらいました。

職員の食料の確保

(聞き手)
 市職員への物資や食料配給については、どのように考えて行動されていましたか。

(佐藤様)
 最初は特に考えもなく、職員が優先されることはないだろうとしか思っていませんでした。そんな中で賞味期限切れの食品が出てくると、これを職員が食べようということに自然となりました。
しかし、今になって、いろいろな方のお話を聞くと、まずは職員も食べないと復旧も復興もできるわけがないのです。
私たち職員も、食事をしっかりとって、倒れないようにすることが最優先なのだと思います。もし、次に震災が起きたら、職員の食糧の確保は本当に大事な案件になると思います。

(聞き手)
発災当時の対応で、防災計画やマニュアルは活かされましたか。

(佐藤様)
 防災計画や防災マニュアルは、自分自身でもよく分かっていなかったと思う部分はありましたが、マニュアルにとらわれていなかった分、自分で考え、ベストになるように対応できたと思います。
評価されるかどうかは関係なく、やるべきことをやりました。
そういう行動をした職員がたくさんいたので、それぞれみんなが考えて、その時点で最善の行動を取ったことが、結果として良い方向に進みました。
マニュアルは当然必要なのですが、なくても何とかなるのかもしれません。目の前に問題があったら、それを解決するためにどうしたらいいかを常にいろんな視点で考えておくことが大事なのではないでしょうか。

多賀城市の防災計画における制約

(聞き手)
 復旧・復興にあたっての問題点や課題は何ですか。

(佐藤様)
 他の沿岸地域では海岸線があって防風林がありましたが、多賀城では市内に海岸線がほぼなく、どこから津波が押し寄せるのか分かりませんでした。
仙台市では、例えば道路をかさ上げすれば守れるというようなシナリオをある程度描けるのですが、多賀城では、そのシナリオを描くのが難しく、復興に向けて考えた時にも、なかなか津波から守りようがないのではと感じました。
防潮堤を作るということを言うだけなら簡単ですが、仙台港という国際貿易港で大量のコンテナを取り扱う中、あそこの岸壁に5mの壁を作ったとして、誰がそこを利用できるのかという問題が生じます。
臨海鉄道を止めて高盛り土すればいいという案もありましたが、コンテナ輸送に支障をきたすという問題が残りました。
津波からの守り方が全然見つからず、あまりにもシビアな条件が揃っていました。
 だからと言って高台に移転するにしても、そもそも、多賀城には高台がなく、あっても文化財があって移転できません。
 最終的に、多賀城市で保有している、工場地帯の道路の真ん中にある鉄塔敷に盛り土して木を植えることになりました。
ですが、それでもシミュレーションしてみた場合、どうしても2メートルほどは市街地に水が入ってきてしまうのです。
本当に高い岸壁を作るしか被害をなくす方法はないという結論が出ましたが、だからと言って集団移転をしてもらうわけにもいきません。
現地に残りたいと思っている方もいるはずです。それを否定するようなことは、将来的に見たまちづくりとして良い訳がないと話しました。そこで、市長とも話し、リスクがあることを承知で、意識を持って住んでもらうしかないという結論に達し、現地再建という選択肢を選ばざるを得ませんでした。

(聞き手)
 他の都市では集団移転を促すことが多いですが、多賀城市がそれをしないのは、そういう背景があったからなのですね。

(佐藤様)
 そうです。
また、市民の皆さんのご意向を伺ってみたら、貸家に暮らされる方たちは、市外へ引っ越しするという声が多かったのですが、持ち家の方は再建せざるを得ない方が多いのです。
もし、集団移転に要す再建のためのお金を100パーセント国費で賄えて、しかも何の負担もなく以前の幸せな生活を取り戻せるのであれば、多賀城市も集団移転を選んだかもしれませんが、防災集団移転では、自分のお金で、自宅を建てなければなりません。
例えば70歳の方にそれを、既存の財産権を侵害してまで強制するのが本当に良い選択なのかという疑問もありました。
そこで、現地で修繕して、極力皆さんへの被害を減らし、いざという時にはきちんと逃げられるようにするということで、多賀城市では現地再建の道を選びました。
費用対効果という視点からも、現地再建が最良の選択ではないかという結論に至りました。
 とはいえ、それを市民の皆さんに説明に行くのは本当に怖いことでした。何を言われるのかと恐れていましたが、結果的にはあまり言われることはありませんでした。
 そんな中、復興計画を作っている時に大雨が降ってしまい、大代や桜木で、直したばかりの家屋などにまた被害が出てしまったのです。「1000年に一度の方は仕方ないが、10年に一度の雨の方を何とかしろ」というお叱りをたくさん受けました。
多賀城市はもともと水害に苦しんできたのですが、地震により地盤沈下してしまっているので、雨水が、地盤の低いところに集まってくるという環境も出来上がってしまいました。
ですから、雨水被害への声は本当にたくさん頂きます。
だからこそ、この復興の取り組みの中で、雨水対策には非常に重点を置いています。水害のないまちを作ることは復興の最優先事項の一つだという感じを受けます。
 しかし、津波対策は市のレベルでできることが少なく、県に委ねることが多いのです。
そのような状態で、自分たちのイニシアチブがないのに「これをします」と宣言することの無責任さへのもどかしさがあります。
他の自治体に聞くと、多賀城のような所はなく、第一と第二の防潮堤で大概の水は抑えられるようになっていますが、多賀城では第二防潮堤でも抑えきれません。
港湾区域内にある道路なので、交差点の高さを上げないといけないのですが、津波を防ぎきれない場合はそこから水が入り、水の速さが増してしまうことも考えられます。
津波を完全に防ぎきれない中で、命を守るため、津波から逃げることを最重点課題にしている復興計画が、本市の最大の特徴です。

リスクを開示した上での現地再建

(聞き手)
 避難道路も一つは既に着手中で、もう一つは今後決まるというお話ですが、命を守るために逃げなくてはならないということは、市民全体が共通して意識する必要がありますね。

(佐藤様)
 そうですね。復興計画を作る際に、その計画策定に関する専門の委員さんから、リスクを明らかにして、市民の方が自分の責任でそれらを理解した上でここに住む選択をすることが大切だから、リスク開示はしっかり行うべきだとのお声を頂きました。それも踏まえ、私たちは現地再建を目指すとしています。

防災教育と伝承のための仕組み

(聞き手)
  多賀城市のこれからの復旧、復興に関して、要望や意見はありますか。

(佐藤様)
 押し寄せてくる津波を完全にシャットアウトすることはできず、津波からまちを完全に守ることができないのは、じくじたる思いがあります。しかし、市民の力や地域の力を合わせて、立ち向かっていきたいです。
  そのために防災教育には本当に力を入れていきたいです。子供たちの命が本当に守られる教育を徹底してやりたいという思いがあります。
災害のリスクをはらんでいる都市の中で、自分が生きるために最善の行動を小さいうちから肌で感じ、それを実践できる、そんなまちにすることこそが本当の復興なのではないでしょうか。そうなると、ハード面での整備にも増して、生きるための強い意識を持つことが、減災のために最も必要なことだと気づくことになるのです。
  「停電すると、信号が止まる。信号が止まると渋滞する。渋滞すると車で逃げられないから、歩いて逃げよう」ということになる訳です。
  工場地帯の企業の社長さんの中にも、時間があるから歩いて逃げる決断をされた方もいて、そういうことを誰もが当然だと思って行動に起こせるまちになると、本当に素晴らしくなり、命も失われなくなるでしょう。
 住んでいる方だけでなく、来訪者の方にもちょっと違う意識を持って頂けるとなお良くなり、それこそ復興だと思っています。
  ですがなかなかその手段までたどり着けず、自分で全て出来る訳でもないですが、この「たがじょう見聞憶」などの震災アーカイブ事業などがきっかけになって、次の行動に移っていけることを期待しています。

(聞き手)
  ハードも大事ですが、比重としてはハードよりソフトというお考えの方が強いということでしょうか。

(佐藤様)
 そうです。伝承と言うのはやはり、私たちがその意識を持って、子供や孫に引き継がせる教育の仕組みを整えると、それが結果として伝承になるのではないかと思います。
  それと、伝承のみが目的化されず、常にみんなが行動できることを目指していければ良いと思っています。
全然復興に関係ないようなものもたくさんありますが、何かしらの意味で教育に繋げていき、関連づいてみんなの意識が高まり行動に反映される、そんな復興が理想です。

(聞き手)
 防災教育の具体的な、常に意識してもらうような取り組みやアイデアがありましたらお聞かせください。

(佐藤様)
 まだ、あまりないのですが、NPO法人防災士会みやぎでは、減災絵本「リオン」というものをつくり、読み聞かせを始めています。物語を通して、自然災害発生の仕組みと、備えが、お子さんでも分かりやすく学べる内容になっています。子どもの好奇心をくすぐるような工夫もあり、例えば、40メートルの津波高をイメージできるよう仕掛けをしたページには、身長1メートルの子ども40人が並んでいます。それを多賀城市でも頂いて、図書館や学校に置くようにしました。
  その読み聞かせを当たり前のように出来るようにすることや、子供たちが生きる力を面白く学べるようにするといいと思います。
  また、東北大学の先生が、例えば『サバメシ』というものを考案されました。家庭科の実習と防災を重ね合わせ、「これしか食材がなく、これしか道具が使えない中でみなさんはどんな料理を作りますか」という状態で料理をして食べてみることで、生きる力を少しでも高めるような授業をすることも必要でしょう。
   公民館での講座や図書館でのイベントもそうですが、一つ一つの取り組みでちょっとした防災・減災の意識を持つことができると良いと思います。
ただ、津波の映像を見せるような、辛い体験を思い起こさせるようなことは、私も受講者の方も辛いので、それは良くないと思います。
  一番は学校教育の中で、さまざまな防災教育をしてもらいたいです。

地域を知ることの大切さ

(聞き手)
今回の震災の経験から、後世に伝えたい教訓はございますか。

(佐藤様)
 自分の住んでいるまちを知って欲しいです。これも教育なのですが、今回の津波でラジオから「仙台港に10mの津波が来ます」と言われた時に、仙台港は海面からの標準高さが約2mだから8m分だけ越えてくる、そういうようなことをすぐに想像できて欲しいのです。
自分の家は標高どれくらいか、どこまで逃げれば安全なのかということを、自分のまちを何となくでもいいので知ることによって、防災に繋げられるのではないでしょうか。
もっと地域を知り、地域に目を向けることで防災にリンクを貼っていく、そういうことをお手伝いしたり、町を知ることで災害の種類や怖さを知ったり、それをいろいろな形で教えていきたいです。
 ある市民の方から、「ハザードマップに標高が書いていないのはなぜですか。あれがあると避難行動も違ってきます」と言われました。
私の家族は、比較的内陸に住んでいたのですが、津波が来ると聞いて多賀城で一番高い政庁跡の方へ車で逃げて、車内で1日半くらいずっと過ごしたそうです。
逃げることは大事ですが、自分の住んでいる所に来る可能性がどれだけあるか知り、誤解を解消することも大事でしょう。
自宅の2階に逃げるのも避難行動としては間違っていませんが、これもその地域によると思います。
地域と災害のリスクをきちんと知っていると良いのではないでしょうか。もちろん、その想定以上の可能性も認識していれば、なお良いです。

さまざまな発想から復興に挑戦してみること

(聞き手)
これまでの質問以外の内容でも構いませんので、話しておきたい事がありましたらお願いします。

(佐藤様)
 復興推進局という部署は最初3人で始まったのですが、皆、前を向いて、ひたすら進んでいる感じです。
それが結果につながるかどうかは置いておいて、そういった意識を職員が全員持つと良いと思います。
 あとは、市民の方々が本当に大変で辛い思いをしている中、新しく得た出会いなどの良いことを、出来る限りプラスに捉えていくことが必要なのではないかと思うのです。
辛い中でそんな気持ちはなかなか出てこないとは思いますが、せっかくならプラスの方向に考える、というような思いを持って頂けるといい復興が出来るのではと思っています。ただ、これはあくまで理想論であって、現実は職員も含めて、苦しんでおられる方や辛い思いをされている方がたくさんいらっしゃるので、そうした取り組みをうまく行える環境をどのように作れるのか考えています。
 「マイナスをプラスに」というご意見を復興計画の検討委員の方から頂いたのですが、感心しました。
例えば、防災教育を観光に繋げられないか。今まで草刈り程度しかしてこなかった文化財管理を任せてもらって、雑草管理のついでにハーブなどのいろいろな植物を植えられないか。その分コストを削減してもらい、出来たものを多賀城の名前を付けて売ってはどうか。そういったご意見があって、とても面白い発想だと感心しました。さまざまな発想でチャレンジすることは、面白い取り組みにつながると予想しています。
 蒔いた種が芽を出したその先まで考えていきたいところもあります。